
エベレストビューホテルからのエベレスト、ローツェの勇姿
ヒマラヤ山脈 【エヴレスト街道紀行】
■ 紀行月日
平成29年4月4日(火) ~ 26日(水)
■ 参加者
がく、セイ 他
■ 解説
★ エヴェレスト(標高は、8,848mで世界1位の高峰)
★ ローツェ(標高は、8,516mで世界第4位の高峰)
主峰の他に中央峰(8,414m )、シャール峰(8,383 m、東峰)がある。ローツェは「ロー=南、ツェ=峰」(チベット語)の意。エベレストの南峰を意味する。エベレストの頂上とローツェの頂上との距離は直線で約3km程しか離れていない。発登頂(はスイス隊(エルンスト・ライス/フリッツ・ルフジンガ-)によって「1956年5月18日」なされた。今まで200人以上が登頂し、11名が遭難(死亡)している。
■ 山行記
満70歳を過ぎもうそろそろ高い山は無理かと考えていたが、アイランドピークを目指すエベレスト街道のトレッキングに参加しないかとの誘いに乗って、34年ぶりに出掛けることになった。34年前NHKの嘱託建築技術者としてネパール・ラジオのスタジオや送信施設の建設プロジェクトのコンサルタントとしてネパールに滞在していた頃、休暇を盗んで日本から合流した岳友と共に歩いたのが最初だった。34年を経て行ってみると、その変わり様に唖然とするばかりであった。エベレストを含むクンブーン地区がネパールの国立公園に指定されたのは良かったと思うが、世界的に有名なトレッキングルートとなってしまった今は、世界各国の登山家や観光客がエベレストを目指しこのルートに集中している。エベレストに憧れ、エベレストに少しでも近づこうと、この街道を歩いて来る人々の気持ちは私にも良く分かる。しかし、ネパールの受入れ態勢は十分とはお世辞でも言えない。エベレストを目指す人が高度順化の為登るというまでアイランドピークのBCへのルートも、例外ではない。国際色豊かな登山家達、そのサポートのシェルパ、ポーター、コック、そして荷揚げに使うゾッキョやヤクといった家畜類が頻繁に行き交う正に「街道」だ。しかし、ひと昔との違いと言えば中国のせいでチベットとの交流が途絶えていることだろうか?ナムチェバザールも様変わりしている事だろう。バザールのタイミングを逸したので分からないが。私にとって、34年前との違いと言えば、ルクラの飛行場が舗装されていた事、ルクラやナムチェが観光地化・商業地化されている事、街道の村々のロッジがカラフルで綺麗になり、トイレは一応水洗になり、レストランのメニューは西洋風になり、携帯やスマホが普及している事、街道の拡幅や整備が徐々に進んでいる事、皆の服装がやや豊かになっている事、木の吊橋がスチール製に架け替えられている事、携帯のアンテナが彼方此方に建っている事等色々あった。しかし、インフラの近代化がむづかしいネパールでは、人々の暮らしぶりの基本はそう変わってはいないようだった。日本でもそうですが土着の人々はその土地の環境を受け入れその中で生きて行くしか無いのです。
ルクラに降り立ってから、アイランドピークBCに着くまで9日かかった。その間、ナムチェ(3350m)とタンボチェ(3860m)とディンボチェ(4200m)でそれぞれ高度順化の為2泊した。ナムチェでは高度差530mをタンボチェでは高度差255mをディンボチェでは高度差800mをそれぞれ往復した。ルクラからナムチェまでは、石楠花、桜、桃、杏、コブシ、馬酔木、ヒイラギナンテン等の木の花がちょうど盛りで見事であった。また、足元にはヒマラヤサクラソウ、タテヤマリンドウ、シロバナヘビイチゴ等が可憐な花を咲かせており、畑には、麦、ジャガイモ、チンゲン菜、菜の花、ネギ等が植えられていた。また、登り降りが激しく、多くの吊橋を渡り、とても変化に富んだルートであった。ナムチェでの高度順化はエベレス・ビュー・ホテルの往復であった。エベレス・ビュー・ホテルには34年前も立ち寄ってお茶を飲んだが、当時宿泊は中止されていた。シャンボチェに飛行場を造ったのはいいが、ルクラからいきなり飛んできては、高度障害で宿泊どころでは無かったのだ。今では、滑走路はヘリポートとなっていた。エベレス・ビュー・ホテルの佇まいは当時と変わっていなく、懐かしかった。ローツェ障壁の奥に雪煙を上げ君臨するエベレストそして東には天を刺す孤高のアマダブラムがそそり立ち当時と変わりなく、34年の月日が嘘のようだ。タンボチェは変わっていた。クンブーン地区最大のゴンパはその後火災で焼け、建て替えられたそうだ。外壁や屋根が派手な原色となり、周辺に多くの建物が建っていた。かって、テントを張った広場は、サッカーの練習場の様になっていた。ナムチェを立ちタンボチェへ向かう朝、がくさんが体調不良を訴え、皆が帰ってくるまで
10日間をナムチェで待つこととなった。その後体調は回復したが、10日間もナムチェで豪遊した日本人は居ないのではないだろうか。 4年前今回とほとんど同じコースを歩いたが、ディンボチェまで引き返し下山した。今回高度順化の為登ったNankartsang
Ri (5080m)には、当時途中まで登っている。アイランドピークBCにやっとたどり着いた日から天候が崩れ、アタックキヤンプまで登る予定であった次の日は雪が15cm程積り、停滞となった。次の日は晴れとの情報が入り、アタックキヤンプの設営は省き、日帰りでアイランドピークをアタックする事となった。当日、深夜1:00出発、ヘッドランプ頼りで、ひたすらジグザグの急登を進む。その内、岩場に差し掛かり、狭いルンゼ状の登りでは雪で足が滑って踏ん張る力が出ない。挙句はシェルパに引っ張り上げてもらう始末。そんな所が2ヶ所ほど続きすっかり気力が失せ、ギブアップを申し出て、引き返すことにしシェルパと2人で下山した。残る2人はシェルパとさらに登り続けたが、頂上直下の急斜面でついに力尽きて撤退した。帰りは同じルートを引き返し、ナムチェでがくさんと合流、ルクラまでエベレスト街道を堪能した。
今回のトレッキングは、アイランドピークの頂上は踏めなかったものの、雄大な山々を眺めながらの迫力満点のこのコースを歩けたことには大満足である。楽しくも充実した20日間の山旅であった。人生での楽しい思い出がまた一つ増えたようだ。
(セイ 記)
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★ 石楠花
・ネパール語でラリグラス
・真っ赤な花はネパールの国花。ネパールには赤やピンクとオフホワイト(クリーム色)など色々な花がある。
・ヒマラヤ山脈の標高2000~4000mに自生し、純林場所もある。10m以上のの高木も珍しくない。
・葉には毒がり、木質は非常に固い。10m以上の大木の芯が高級家具等の材料として珍重されている。 -
★ 吊り橋
エベレスト街道も、アンナプルナ山系のトレッキングも、 吊り橋なしでは進めない。ルートは一つだけだから。 特にエベレスト街道は川を辿りながらの道だから、吊り橋で川を渡ることが多い。それも洪水を避けるため に高い場所に吊り橋がある。吊り橋の入り口までは急な登りの坂道で、渡り終わるとまた急な下りの坂道になる。また上り下りかって。しかもエベレスト街道は帰りも同じ道を戻る。それに唯一の運搬手段のゾッキョ やヤク(牛の仲間)が吊り橋を列になって渡っていて、そ の鋭い角を避けるために吊り橋の片方に仰け反ってや り過ごす必要がある。それに本来の吊り橋が洪水で流されて、急作りのお粗末な吊り橋をどうしても渡ら なくちゃいけないこともある。 -
★ ナムチェバザール
ナムチェバザールは、東端の集落。 人口は1647人で、クンブでは最大である。 標高3440mに位置し、ヒマラヤ登山の拠点として知られる。 別名シェルパの里。ナムチェバザールは、その高度や夏期のモンスーンに影響を受け、夏は湿った涼しい気候、冬は寒く乾燥した気候となっている。ナムチェバザールを見下ろす高台から。馬蹄形の山腹にロッジ、バッテイ(茶屋)、商店、銀行など数 百軒が密集している。 -
★ タンボチェ
再建されたチベッ仏教総本山タンボチェ・ゴンバのある タンボチェ(3,860m)に到着する。ナムチェ・バザール から5時間半程歩き、タンボチェに着く。タンボチェ(3,860m)の標高は日本の最高峰・富士山(3,776m)より高い場所である。 -
★ アマダブラム(6812m)
・ネパ-ル政府公式標高6812m(地形図などの標高6856m)
・エベレスト街道では」人気の高い山で意味は、アマは母親ですなわち「母親の首飾り」の意味
・何本かのルートがあるが、非常に急峻で高度な登山技術が必要
・初登頂は、ニュージランドのヒラリー隊(1961年)
・1992年、山野井泰史(当時27歳)が西壁を冬季単独初登壁 -
★ アイランドピーク
・主峰は北東峰、頂上稜線は約1kmの比較敵緩やかなリッジ
・周囲の氷河の中に島のように聳えることから、英国登山家「シンプトン」によって命名される
・初登頂は、1956年スイス隊
・登山技術・・・日本国内では積雪期(11月~4月)の富士山が登れる程度の技術が最低必要です。また、ユマーリング、懸垂下降技術も必要。
・ヒマラヤの入門コース -
アイランドピークBC(4970m)
一夜にして銀世界に変貌する